"ハワイに住む"を叶えた人々にインタビューするこのシリーズ。今日は、リンガーハット創業者の米濵鉦二さん麗子さんご夫妻の、素晴らしいハワイのご自宅でお話を伺いました。
リンガーハット創業者 取締役最高顧問 1938年生まれ。1956年3月、国立詫間電波高等学校本科卒業。同年10月、川崎汽船株式会社に入社。主にニューヨーク定期航路の船舶無線通信士として勤務。1962年3月、船舶通信機製造の日本電業株式会社に入社。翌年3月にはコンピュータのシステム設計などを行う株式会社日本ビジネスコンサルタントに入社、後に株式会社日立製作所に編入された。1965年5月結婚。1974年3月、株式会社浜勝に入社。長崎ちゃんめん1号店(後のリンガーハット)の創業を担当する。1994年4月、藍綬褒章受章。2003年5月、リンガーハット株主総会で代表取締役会長を退任。取締役最高顧問となり現在に至る。
ここから見る青い空や海の景色が、気に入っています
ホノルル・カカアコ地区に建つ高層コンドミニアムの最上階南西に面したリビングの総ガラス張り窓から沖合いを見渡すのは、長崎ちゃんぽんを世界に広めたチェーン店「リンガーハット」創業者ご夫妻だ。グループ全体で761 店舗、従業員数9000人以上の一大企業へ育て上げた米濵さん。そのキャリアのスタートは何と"船乗り"だというから驚きだ。
海外渡航が自由化される以前の1950年代後半、当時18歳だった米濵さんは船舶無線通信士として主にアメリカ航路の貨物船に乗船。ニューヨーク、ロサンゼルスなど主要都市の港からアメリカ文化を垣間見て日本との違いに圧倒され、いつかアメリカに住みたいと憧れた。しばらくして船を降りた米濵さんはコンピュータシステムエンジニアとして県職員の給与計算プログラムを組むなど時代の最先端で活躍。その頃出会った麗子夫人と昭和40年に結婚。大黒柱として人生の舵をとることに。
「SEの仕事もやりがいがありましたが、兄に長崎ちゃんぽんのチェーン店を100店舗作ろうと誘われました。その実現には店舗運営、会社のシステム作りが必要。それには君が適任と説得されました。」
サラリーマン人生に多少の疑問を感じていた米濵さんは決断。スーツをユニフォームに着替え、麗子夫人も厨房に入り米濵さんの成功を支えた。
時代は空前の外食産業ブーム。その後押しもあり長崎、福岡、東京と順調に出店が叶い、ついに目標の100店を達成した。
「アメリカに店を作る」船乗りの時代から実に30年余り。遂に夢見たアメリカ進出の汽笛を鳴らした。1989年のことだった。東京の自宅を引き払い従業員9家族を連れ満を持して渡米。アメリカ初出店に選んだ地はサンフランシスコ湾南に面するサンノゼ市。今こそシリコンバレーの中心地として栄えているものの当時はまだ小さな田舎町だったという。
「下見でアップルコンピュータ本社を見つけた時、隣に店を作ると決めました」
ラーメン店でさえ数える程度しかない土地に長崎ちゃんぽんの味を広めるには苦労があった。ようやく4店舗が展開できた時、日本のバブル経済が崩壊。米濵さんを船長とするリンガーハットアメリカ号は面舵いっぱい進路変更を余儀なくされた。
「アメリカに灯した火を消したくなかったんです」と米濵さん。ロスアルトスの1号店は個人所有として営業を続け、リタイア後の楽しみにとサンノゼに購入した自宅を守った。
そのため、麗子夫人は8年間、一人でロスアルトスに年6回、通い続けた。65歳で現役を退いた米濵さんにようやく自分の時間を楽しむ時が訪れる。
「ハワイはビッグアイランドでゴルフする程度だったんですが、弟がワイキキに店を開き、帰国途中オアフへ立ち寄りました。カリフォルニアに比べてハワイは日本に近い。ここへアメリカの住まいを移そうと決めました。」
ロスアルトスの自宅を売却。5年前にこのコンドミニアムを購入。ハワイへは年に5回夫婦で訪れ1ヶ月ほど滞在する生活。ステイ中はハワイシニアライフ協会の仲間達とゴルフを楽しむなど日々を満喫している。
そして米濵さんの隣には半世紀以上連れ添う麗子さんの笑顔が常にある。淹れたてのコーヒーを手に目の前に広がる海原を眺めるお2人の航海は視界良好、穏やかに続いていく。
最後に、米濵さんにお気に入りのハワイのお店をご紹介していただきました。
「 ザ・シグニチャー プライム・ステーキ&シーフード」
アラモアナ・ホテルの36階にあるステーキレストラン。食事と眺望が同時に楽しめるところが気に入り。滞在中御友人と一緒に何度か訪れる。
410 Atkinson Dr(. アラモアナ・ホテル36階)
☎808-949-3636 営業時間 16:30〜22:00
休み 無休